El mundo cambia constantemente.
ラテンアメリカ文学、キューバの文学、カリブの文学などについてメモのようなものを書いています。忘れないように書いているというのもあるけれど、忘れてもいいように書いている。書くことは悪魔祓いみたいなもので、書くとあっさり忘れられる。それがいい。
Escribir es un acto de exorcismo. Escribir cura, alivia.
2025年9月29日月曜日
9月29日
2025年9月27日土曜日
9月27日
竹橋の東京国立近代美術館で、「記録をひらく 記憶をつむぐ」を見てきた。戦争画の展示ということで図録もなければチラシも作らず、それがむしろ関心を惹いているようにも思ったが、そんなに混んではいなかった。内容重視の慎重に作られた企画で、見応えがあって、できればもう一度見にいきたい。全体がどれくらいの規模なのかがわからなかったこともあるし、こちらの頭脳の限界もあって、絵画を中心に見たために、合間に置かれた雑誌その他の資料までを丁寧に見ることはできなかった。合わせて「コレクションに見る日韓」と「所蔵作品展」も見るつもりだったので、あまりの分量で関心もあちこちに飛んでしまって、よくあることとはいえ、整理がつかないままに見たものも多かった。もったいないことをした。この前行った長崎県立美術館の展示もかなり大胆な内容だったし(ゴヤの戦争ものって結構重い)、戦後80年がこういう展覧会を可能にしたことが時期として遅かったのか早かったのか、もちろん人それぞれの受け止め方次第で、世代的なものや日頃の興味の方向に依存するとはいえ、忘れられない展覧会ではあると思うし、できれば関心を共有できる場所があるといいし、こういう展示が将来のための下地なりなんなり、踏みとどまるためのなんなりにならないものだろうか。「なんなり」ってなんなの?というのはあるけれど。
2025年9月25日木曜日
9月25日
2025年9月23日火曜日
9月23日
2025年9月17日水曜日
2025年9月15日月曜日
9月15日
世界文学・語圏横断ネットワークの21回研究会(9月13日、オンライン)でバルガス=リョサの『激動の時代』をめぐって座談会を開催しました。
アメリカ文学の都甲幸治さん、仏語圏カリブ文学の福島亮さん、比較文学の西成彦さんがそれぞれ興味深い話をしてくださり、バルガス=リョサは奥が深くて面白い作家だということに多くの人が納得した会になりました。
2025年9月9日火曜日
9月9日
2025年9月6日土曜日
9月6日
映画『遠い山なみの光』(石川慶監督)を制作するにあたっては二つの引き受けるべき、また乗り越えるべき課題があった。一つは英語で書かれたカズオ・イシグロの小説A Pale View of Hills(1982)と比較されることを前提にしなければならないこと。もう一つは、原作では読者の想像や解釈に委ねられた「行間」それ自体を映像として映すことをためらっていては映画にならないこと。
「行間」ということでは、これはイシグロの長篇デビュー作であるから『日の名残り』というわけにはいかず、なんとなく不完全にというか、不首尾に終わっているようにも思えなくないところがある。訳者の小野寺健は「欲張り」なところがあると指摘している。とはいえ『日の名残り』にしても、イシグロが35歳の時の長篇なので恐れ入りました、ではあるのだけれど。
それにしても、戦後80年と重ねて制作されたこの映画を見なければ、この小説自体が長崎や原爆の記憶の継承が問題化された物語として読まれただろうか。そう読まれるまでに40年以上の歳月を必要としたのかもしれないし、むしろイシグロがこの小説を書いたときには、「長崎や原爆」に近づくために、あえてそこから遠く離れるための書き方を選んだようにも思える。その「遠く離れるための書き方」が、40年以上が経った今の時代に相応しい方法になり、その「遠い」という距離感が逆にこの映画が撮られてしかるべきという根拠にもなって映画を支えているし、原作もまた今日的なものにもしているのだ。
映画では稲佐とか城山という地名と並び、若い教員が投獄された場所としてはっきりと西坂と言及される。西坂とは1597年に26人のカトリック信者が処刑された地名でもあり、そこには二十六聖人記念館が建てられている。1955年が平和祈念像、1962年がこの記念館の建立で、1950年代の長崎では、原爆からの復興とキリシタン史の見直しが合流していることになる。
21世紀に入ってからは九州を中心に製鉄や造船、石炭産業などの遺構を世界遺産へ、という動きの中で、戦艦武蔵を建造した長崎造船所の朝鮮人強制労働の実態が可視化された。高島炭鉱の三菱への払い下げではグラバーが関わっているが、この近代化と植民化プロセスについては原作も映画も触れていない。そんなことをしたら「欲張り」になってうまくいかなかっただろうが(原作では「三菱」への言及はある)。
悦子の友人佐知子がアメリカ兵に恋をして渡米の夢をみるのは、日本人による欧米(とその価値観)への憧れとして感情移入しやすい「美談」ということか。
イシグロにとっての40年と同じくらいの重みが、イシグロとは逆方向の移動をした労働者(インテリではなく)にとってもあったはずだが、それはどの芸術にみつけられるのか。