長々と些事を書き続けてきたバルガス=リョサの『緑の家』について、彼のその後の主だった作品に出てくる人物と絡めて系譜を作っておけば以下のようになるだろう。
フシーア→[ヘルツォークの映画『フィツカラルド(アイルランド系)]→ロジャー・ケイスメント(『ケルト人の夢』)
フシーア→ゴーギャン(『楽園への道』)→ロジャー・ケイスメント
ラ・セルバティカ(ボニファシア)→ウラニア(『チボの狂宴』)→フローラ・トリスタン(『楽園への道』)
リトゥーマは『誰がパロミノ・モレーロを殺したか?』『アンデスのリトゥーマ』『つつましい英雄』など、軽めの小説に。
その中で異彩を放っているのが先住民アグアルナ族フムで、バルガス=リョサが1957年にアマゾンへ行ったときに会った人物をモデルにしているが(『水を得た魚』より)、『密林の語り部』に繋がっているとみるべきか。
ちなみに『ラ・カテドラルでの対話』のベルムーデスはトゥルヒーリョ(『チボの狂宴』)へ。
フシーアについて調べていたら、イルマ・デル・アギラ(Irma del Águila)という作家が『フシーアの島(La isla de Fushía)』という小説を書いている。このペルー出身の女性作家は『緑の家』と同じ年、つまり1966年に生まれ、それからちょうど半世紀後の2016年にこの本を発表した。書評などは出てくるがネット書店では入手できない。読んでみたいものだ。
そもそも『緑の家』ということでは、作者自身の講演録『ある小説の秘められた歴史(Historia secreta de una novela)』(1971、講演自体は1968年に行なわれた)が基礎文献である。
「この小説[『緑の家』]は、私の国でも極めて異なる二つの場所を舞台にしている。ひとつはピウラで、沿岸地帯の最北部、大きな砂漠に囲まれている街だ。二つ目はサンタ・マリア・デ・ラ・ニエバで、ピウラからかなり離れたアマゾン地帯の極めて小さな交易地だ。」
「我が人生におけるこの小説の起源は23年前の1945年、私の家族がはじめてピウラについたときにある(このことはもちろん疑いようがないことである)。わずか1年しか住まず、その後母と私はリマに引っ越した。ピウラで過ごしたその年は、まだ9歳の鼻垂れ坊主であった私にとって決定的であった。」
などと語り出されている。ピウラ、マンガチェリーア地区、「緑の家」。一方、サンタ・マリア・デ・ニエバは上述の通り1957年に訪れ、その訪問中彼の頭に刻まれたのは伝道所だ。この伝道所は1940年代にスペイン人の修道女によって建てられたものだ。彼女たちはアグアルナ族とウアンビサ族に布教(文明化)していたのだが、大雨でポンゴが急流と化すと身動きが取れなくなってしまった。ここでもやっぱりポンゴ。
フシーアだが、どこかで読んだ記憶の通り、トゥシーアという人物の伝説を作者は聞き及んでいる。第二次世界大戦中、日系ペルー人が強制収容されるときに、そこから逃げ出した人物で、彼は密林地区で女性をはべらせていたという。
「トゥシーアはアグアルナ族の服装を着て、先住民のように顔を塗り、体にはベニノキとルピーニャ、大きなパーティを開き、踊ってはマサト酒を飲んで前後不覚になるまで酔っ払っていた」
こんな伝説に惹かれるのだから、のちにゴーギャンに向かったのは当然と言えば当然か。
【4月10日追記】
『緑の家』のフシーアの存在はトリックスターのようである。先住民たちと連帯し、彼らに協同組合まで組織させ、白人を驚かせた。白人たちは彼の足取りはつかめなかった。おそらくフシーアは一度もその姿を白人たちの前にあらわさなかったのだろう。略奪資本主義に抗するその姿に反植民地主義的な文章を書いたゴーギャンを重ねるのは無理があるだろうか。そんな彼は最終的にサン・パブロ療養所に行き着くわけだが(ゴーギャンはマルキーズ諸島で死んだ)、ここはエルネスト・ゲバラが学生時代に訪れたところでもあった。ゲバラが見た療養所には、さまざまな出自の人がいたのだろう。
【4月16日追記】
上に引用したバルガス=リョサ『ある小説の秘められた歴史』の書影。
書誌情報は
Mario Vargas Llosa, Historia de una novela secreta, Tusquets Editor, Barcelona, 1971.
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