2020年1月2日木曜日

ラス・カサスと(エンツェンスベルガー/野村修と)堀田善衛

「かれ[ラス・カサス]の報告は、植民主義のもっとも初期の形態を、すなわち、剥き出しの掠奪、露骨な劫掠を扱っている。国際原料市場の複雑な搾取機構は、かれの時代にはまだ存在しなかった。スペインのアメリカ征服にさいしては、貿易関係はなんの役割りも演じていなかった。征服を正当化するために利用された口実は、卓越したヨーロッパ文明の普及でもなければ、どんな性質のものかはともかくとして「開発政策」でもなくて、うすっぺらな、形式だけのキリスト教だった。キリスト教世界のご到着まで生き伸びていた異教徒を、改宗させましょう、というのである。原始状態の植民主義は 、互恵とか交易とかいったフィクションを棄ててかかっていた。」(p.103-104)

以上は、 エンツェンスベルガー『何よりだめなドイツ』[石黒英男訳、晶文社、1967年]所収の、「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」からの引用である。



バルトロメ・デ・ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は岩波文庫から1976年に出ている(染田秀藤訳)。

1964年にキューバを訪れて『キューバ紀行』(初版は岩波新書、現在は集英社文庫)を著した堀田善衛は、その紀行文ではやや暢気な調子でキューバ見聞録を書いている。

とはいえ、冒頭は「いつもアメリカの軍艦が睨んでいる」と書き始めている通り、まずその目がとらえているのは「戦争」である。集英社版では省かれているが、初版には写真が何枚か載っていて、そのうち一枚はキューバ人民兵の行進風景である。

堀田ののち、小田実がキューバ紀行を書くが、そこには堀田善衞が見たときの「牧歌的な」キューバとは違う、1968年のもっとシリアスな状態にあるキューバを見たという自負がある。もちろんその時のキューバが直面していたのは対米の緊迫というよりは、国内における緊迫のことだが。

小田実のキューバ紀行は以下の本に載っている。


 
堀田善衛はその後、「第三世界の栄光と悲惨について」や「エルネスト・”チェ”・ゲヴァラと現代世界ーーインタナショナリズムの前途」を、キューバ経験を踏まえて書いている(以上は『小国の運命・大国の運命』に所収)。この時、キューバで訪れた「マタンサス(虐殺の意)」州とラス・カサス報告の「虐殺」が重ね合わせられるのだ。

小田実もキューバとチェコスロバキアを比較しながら書いているが(『この世界、あの世界、そして私』河出書房新社、1972年)、堀田善衛はこう書いている。

「(…)そうして一九六四年に、私はキューバへ旅行をして、キューバ革命についての文献を求めるためにハバナからモスクワ経由でパリへ行った。(…)学生街のそんじょそこらの本屋で、キューバ関係はもとより、「第三世界」と呼ばれているアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどでの革命運動、ゲリラの状況、また各地に自生をしはじめた革命理論についての文献を、きわめて容易に入手することが出来たものであった。けれども、第三世界の文学作品は、やはりPresénce Africaineなどの専門店へ行かないと、網羅的には入手できなかった。」

なんと、堀田善衛はパリのプレザンス・アフリケーヌ書店へ行っていたのだった。

そして堀田のこの「第三世界の・・・」は、ラス・カサスの『簡潔な報告』の内容から書き出されており、ラス・カサスの本をパリでフランス語訳で手に入れて読んだと言っている。しかし堀田はその文章を書く時そのフランス語版が手元になく、「野村修氏の手になるドイツ語訳による抄訳にたよ」ったとある。

ということは、と思って『何よりだめなドイツ』の「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」の訳者を見ると、野村修氏だった。

エンツェンスベルガーの文章から引いておきたい箇所。

「この本[ラス・カサス報告]のアクチュアリティーは不気味なほどであり徹底して同時代のにおいがする。」

ここは特にベトナム戦争のことを言っている。エンツェンスベルガーは続けて言う。

「歴史の類似というものは、すべて二義的なのだ。それを拒否する者にとっては、歴史は無意味な事実の集積になる。それを真に受け、特殊な差異を無視できると思う者にとっては、歴史はあてどない繰りかえしになり、かれは、いつだってこんなものだったのさ、という詭弁のとりこになる。そうなれば、そこから暗黙の結論は、これからだってこの通りさ、ということになるのだろう。」

「平和な植民などというものはないのだ。(…)剣と火にもとづいてのみ、植民地支配は確立される。」

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