ナオミ・クラインの新著を読んだ。
『楽園をめぐる闘い』(星野真志訳)、堀之内出版、2019年。
彼女がプエルト・リコに出かけていることは、こちらで知っていた。スペイン語版の出版についてはこちら。あっという間に日本語になったわけである。
しかしプエルト・リコと「楽園」とはなんとそぐわない組み合わせであろうか。
この本では、ハリケーン・マリアのショックに立ち直れないところへ持ち込まれる「災害資本主義」と、実はそれに先行する形で進んでいたとんでもない米国起業家優遇政策(税金優遇政策など)が次々に明かされていく。
ハリケーンののち、プエルト・リコ人のエクソダスが起き、島は半ば空っぽになった。そこへ乗り込んでくるのは、新たな金融ゲームを享受しようという「プエルトピア人」たちだ。彼らはプエルト・リコでスペイン語が話されていることもよく知らない。
その一方で、プエルト・リコ人による共同体作りの夢、相互扶助に根ざした楽園実現に向けての運動(再生可能エネルギーや農業分野など)が進行している。カーサ・プエブロ、コキ・ソラール、オルガニサシオン・ボリクア、プロジェクト・デ・アポーヨ・ムトゥオなどだ。クラインはもちろん後者の方が希求する「異なる世界」「異なる未来」に夢を見つけようとしている。
この本は、どこかドキュメンタリー映画『ジャマイカ、楽園の真実』を思わせる(ここでも「楽園」という言葉が使われている。邦題だけのことだが)。ナレーションのジャメイカ・キンケイドの声が聞こえてくるような気さえする。
クラインは「時間との競争」というタイトルの章で本書を締めくくっている。
共同体づくりの運動は資本の速度と競争しなくてはならない。それは過酷なことだ。
「問題は、資本と違い、運動の動きは遅い傾向にあるということだ。これは、民主主義を深め、普通の人々に自分たちの目標を定めさせ、歴史の手綱を掴ませることを目的とする運動については、なおのこと当てはまるのである。」(115頁)
プエルト・リコは世界で最も古い植民地と言われる。
その長きに渡る植民地状態のおかげで、「プエルトリコの人びとは大きなことについて考えることに臆病なんです。 わたしたちは夢を見ているべきではない、自分たちを統治することすら考えるべきではないとされているんです。デカいことを思い描くという伝統がないんです。」(50頁)
かつてこの島の人びとはプエルト・リコの一つ星の国旗の禁止にも従順に従ったという。そのとき島のシンボルになったのは紋章で、そこには子羊が描かれている。まさしく従順。
このイメージを小説に使ったのがロサリオ・フェレの「カンデラリオ隊長の奇妙な死」(『呪われた愛』所収)である。
従順を嫌い、大きなことを思い描いたり、夢を見た人はどのような存在なのだろうか。
この短篇にはそんな人物が出てくる。 アメリカ合衆国の士官学校で学んだ軍人カンデラリオである。彼の理想とするのはシモン・ボリーバル。
しかしプエルト・リコには、ボリーバルにはあったような守るべき領土がない。彼は不穏な街の治安部隊の隊長に任命されると嬉々として引き受ける。
しかしタイトル通り、彼は死ぬ。
「完璧な国は世界のどこにも存在しない。そんなものがあると信じている者はたいてい詩人か夢想家であって、彼らは絶滅させられるか亡命するべきなのだ。カンデラリオ・デ・ラ・バジェもそんな一人だった。彼は人びとが理性的に、そして愛に生きることができる完璧な国を夢見て人生を無駄に過ごした。理性と愛は魂の両極に位置していて、絶対に折り合いがつかないのも知らずに。」(「カンデラリオ隊長の奇妙な死」の作者自身の翻訳よる英語版より。ちなみに英語版のタイトルは「カンデラリオ隊長の英雄的な最後の戦い」)。以下はそのロサリオ・フェレの短編集の英語版の書影。
フェレの短篇では、プエルト・リコは米西戦争100年後の1998年に無理やり独立「させられる」。島の人びとが決めたのではなく、米国がいきなり勝手にしろ、と放り出すわけだ。
ではその後ユートピアが築かれるかというと、そうはならず、島は一党独裁によって支配される。おそらくこのときフェレの頭にあったのはキューバだろう。
クラインの本の訳者は、解説でユートピアのディストピアへの反転可能性に触れているが、フェレの短篇はまさしくそれを描いたと言える。
スペイン植民地時代、プエルト・リコのサン・フアンは南米の小さな植民都市にあるような街路がめぐり、いくつもの十字路を通じて歩きまわれたのだろう。米国はその上に巨大なハイウェイを通し、カーブからなるジャンクションを落として粉々にした。私のサン・フアンはそんなイメージである。
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