2018年6月28日木曜日

メキシコで挫折した2本の映画

メキシコで挫折した映画といえば、エイゼンシュテインの『メキシコ万歳!』が知られているが、日本の吉田喜重も同じ経験をしている。

吉田はこう書いているーー「メキシコには物事の完成をはばむなにかがある。」

吉田によって以下のように書き起こされるハチドリ。

「メキシコ市で暮らした家の庭にはハチドリの飛びかう姿がよく見られた。時間が決められたように陽射しがひときわ輝く正午近くに現れ、しばしわたしの眼を奪った。緯度の上では北回帰線の南にあるとはいっても、海抜の高いメキシコ市は朝晩は相当に冷え込み、正午近くにならなければ気温は上昇しなかった。その頃を見はかるようにして庭にハチドリが現れる。もっとも気温とハチドリとのあいだにはなにも習性的なかかわりはなかったのだろう。太陽が頭上に輝き、光が庭に充満すれば、ハチドリのはばたく羽根の透きとおった鱗状模様が色さまざまな美しいスペクトル現象となって、いっそう印象的に見えたからだろう。ハチドリは高周波の微かな震動にも似た羽音をたてながら空中に停止し、その魔術的な色あいの肢翼を拡げなければ、外観はスズメやヒワと変わらぬ凡庸な鳥にすぎなかった。」

映画監督がメキシコに訪れた理由はこうある。

「わたしははじめてチュルブスコの撮影所を訪れた。シルバ氏が発案してメキシコの若い映画人たちがわたしを歓迎する集まりを開いてくれたのである。映画監督のフォルへ・フォンスやセルヒオ・オルホヴィッチ、やがてシナリオ執筆に協力してくれることになるトーマス・ペレス・トウレントと知りあったのもこの歓迎の席上のことであった。その日の雑談のなかで、わたしは日本とメキシコ両国の交流に触れて、かつて仙台藩主伊達政宗の家臣支倉常長がこの国を経由してヨーロッパに渡り、聖地ローマまで旅をした事実を告げた。約四世紀前支倉に従ってメキシコまで渡航してきた日本の侍たちが百四十名にも達する集団でありながら、その大半が鎖国令下の日本に帰れず、異郷に朽ちはてた歴史をふまえて映画が発想されるのではないかと話した。」

「新大陸における歴史劇といえば征服者コルテスとその情婦となって混血の子を生んだインディオ女マリンチェの物語しか考えられなかっただけに、異郷に見すてられた日本の侍とインディオ、そしてメスティーソという、いわば疎外された人間同志のあいだに展開する作品はメキシコ映画人たちの想像力を刺激したのである。」

以上は、吉田喜重『メヒコ 歓ばしき隠喩』岩波書店、1984年からの引用。




映画の原作には城山三郎の『望郷のときーー侍・イン・メキシコ』が用いられたらしい。


『メキシコ万歳!』は未完フィルムが編集されて陽の目を見、さらにその後『グアナファトのエイゼンシュテイン』(グリーナウェイ)が撮られたが、吉田喜重では同じようなことは起こらないのだろうか。

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