2025年6月30日月曜日

6月30日

Shu-Mei Shih(史書美)の論文「Comparison as Relation」(関係としての比較」)。誰か日本語に訳してほしい。グリッサンの『関係の詩学』を踏まえている。彼女は「The Plantation Arc(プランテーション・アーク)」を提起。これは西インド、アメリカ大陸の南、東インドを同じ構造で考えること。奴隷制のもと組織化されたプランテーション・システムの構造を出発点に、それぞれの地域で相互に関係しているが異なる一つのルートをたどること。関係としての比較。柴崎友香『帰れない探偵』からは「昔の地図が、きれいすぎる気がした。(中略)もし、書き換えられているとしたら、高い技術があり、周到に行われている」(19)、「資料は、よく整理されていた。むしろ、整理されすぎている気がした」(63)など。記録の書き換え、消去、記憶の不確かさ。もとに帰れない探偵。消えてしまった探偵の家への路地。うっすらと恐怖が立ち上がってくる。また「誰かが話すそのとき、その人が見ている光景。いつか確かに見た光景。(中略)わたしはそれが見たいのに、ずっと見ることができない」(71)から、当事者と語り手の距離感。

今日は6月30日。

2025年6月29日日曜日

6月29日

「今から、十年くらいあとの話」はスペイン語では、Diez años después esto había de ocurrirだろうか。「世界の表面がぺりぺりとめくれて、まったくおなじなのに、すべてが光り輝いた。眩しくて、耳の奥、頭蓋骨の中が、痛かった」以上、 柴崎友香『帰れない探偵』46ページなど第二話。「ガルシア=マルケスとグローバル・サウス」(Magalí Armillas-Tiseyra)では『百年の孤独』から、「開拓者になるのに、カリブ海もアフリカも大して変わらない」の引用。ベルギー、レオポルド2世、そしてガストン。スワローズは2試合連続零封。この暑さでは6月のデーゲームも難しい。先週末でも恐るべき暑さだった。ペルー料理店でセビーチェなどを食べてピスコ(pisco)やチルカーノ(chilcano)。チルカーノはピスコをジンジャーエールで割ったもの。

2025年6月28日土曜日

6月28日

ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫、染田秀藤訳)、ガルシア=マルケス『百年の孤独』(新潮文庫、鼓直訳)、柴崎友香『帰れない探偵』(講談社)、Nadia Celis-Salgado, "The Power of women in Gabriel García Márquez's world"

2025年6月24日火曜日

6月24日

今度の水曜は会議の数が4。振り返ってみれば、今年度の4月は会議・打ち合わせの数が20。単純にこれを12倍すると年間で240になる。

2025年6月22日日曜日

6月22日

夏至の時期にこれだけ暑くなった記憶がない。米国がイランを爆撃したニュースはスペインのエル・パイース紙では大きく報じられている。

2025年6月21日土曜日

6月21日

詩人が散文から学ぶことは、あまり多くない(ヨシフ・ブロツキー)

2025年6月16日月曜日

6月16日

Rauda Jamís。日本語表記ではローダ・ジャミ。

『フリーダ・カーロ 太陽を切りとった画家』(河出書房新社、1999新装版)の著者。フランス語で書かれたフリーダの伝記。

ジャミJamísという姓。

父はファヤド・ハミス。メキシコ生まれだがキューバで長く暮らして、キューバ作家として知られている(Fayad Jamís, 1930-1988)。

母はキューバ出身で、ビブリオテカ・ブレべ賞の受賞者で詩人のニバリア・テヘラ(Nivaria Tejera, 1929-2016)。

エレナ・ポニアトウスカの本(スペイン語)をフランス語に翻訳している人でもある。




2025年6月15日日曜日

6月15日

Síndrome del domingo por la tarde

日曜日のうちにやっておかないと、月曜日の朝から仕事わんさかですよ。

2025年6月13日金曜日

2025年6月10日火曜日

6月10日

『図書新聞』(3691号) に、ネルソン・ロドリゲス『結婚式』(旦敬介訳、国書刊行会)の書評を書きました。ロドリゲスはブラジルの作家です。





2025年6月6日金曜日

6月6日

版元ドットコムで、バルガス=リョサ『激動の時代』(作品社)の告知がはじまっている。アマゾンなどでも予約できるようだ。

2025年6月4日水曜日

6月4日

夫婦が住んでいたのはへネス(Jenez)通り513番地で、ルイサ(1910)、ウンベルト(1911)、ビルヒリオ(1912)が生まれた。その後一家はへネス通りからメルセー通りに、さらにミハラ開発区(reparto)に引っ越し、ビニシオ(1914)、フアン・エンリケ(1915)、そしてホセ・マヌエル(1917)が生まれた。女1人、男5人の6人きょうだいである。私が知り合ったのは、ビルヒリオの弟のフアン・エンリケさんだ。上から3番目のビルヒリオは1912年8月4日午後12時半に誕生。結婚したとき、父親のフアン・マヌエルは教育委員会の書記、その後はカルデナス水道局長で、母親のマリア・クリスティーナは公立学校の教師だった。

2025年6月3日火曜日

6月3日

ビルヒリオ・ピニェーラの両親フアン・マヌエル・ピニェーラ・アベラとマリア・クリスティーナ・ジェラ・キンタナは、キューバのマタンサス州のカルデナスの教会で1909年6月23日に結婚した。この夫婦から生まれた子どもには、父方の姓ピニェーラと母方の父方の姓ジェラが使われ、〇〇〇〇・ピニェーラ・ジェラとなる。この夫婦から生まれ、のちに作家となったビルヒリオも、若いときはビルヒリオ・ピニェーラ・ジェラ名義で発表している。彼の最も早い時期の詩「El grito mudo(黙した叫び)」がそれだ。この詩はフアン・ラモン・ヒメネス篇『La poesía cubana en 1936(1936年のキューバ詩)』に見つけられる。いずれ母方の姓は消え、彼はビルヒリオ、とか、たんにピニェーラと呼ばれる。

2025年6月2日月曜日

5月31日

この前ル・クレジオの『ディエゴとフリーダ』を心地よく読んでいたのが、遠い過去に思われるほど、たった一週間で身も心もついていけないようなことが起き続けている。予想外のことへの耐性は、その時の健康状態によるから、できるだけ無理をしないように、30パーセントくらいは余力を残して、びっくりすることに対応できるようにしておきたいが、そうもいかない。

6月2日

ただこうして身を削って勤務してゆく以外には、どうしようもないのか。