2024年8月31日土曜日

9月1日を前に 1923-2024

2017年以降、この2024年も小池百合子(東京都知事)は「9.1関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」に追悼文を送らない。

この流れと同調し、より深刻な事態だと考えられるが、関東大震災時の朝鮮人虐殺についての政府の考えについては、岸田文雄(総理大臣)の答弁書(2023年10月31日)を参照しておく必要がある。(他にも似たような答弁書がいくつか出てくる)。

これを読むと政府の答弁が巧妙に作成され、何も答えないように見せながら、実は虐殺を否定しようとしていることがわかる。

石垣のり子(参議院議員)は質問主意書の四で、国会図書館その他に歴史的な事実を検証した資料が残っていること、裁判の判例があることを政府が把握しているのかを問うている。これはつまり、まず把握しているかどうかをイエスかノーで答えられる問いである。

それに対して岸田は、そういう資料や判例の「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難である」と答えている。

資料や判例の「具体的に意味するところが明らかではない」とは? はっきり言って論理的に通らない答えで、話をまぜっ返して言い逃れをしているとしか思えない。こんな答弁を真面目に解釈しても意味がないかもしれない。

しかし資料や判例の意味するところとは、殺害が歴史的事実であるということにほかならない。したがって、その「意味するところが明らかではない」という答えは、短いけれども実に雄弁である。

お答えするのが困難というのは、文字通り解釈すれば答えられないということで、「具体的に意味するところ」が虐殺を指すわけだから、それに対してお答えすることはできないということだ。答えたくないと言いたいが、そうも言えないので、困難であると言っている。

「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えすることは困難である」という表現は、質問主意書六に対する答えとしても使われている。

「お尋ねの『歴史の検証』の具体的に意味するところが明らかではないため、お答えすることは困難である。」

ここで質問者の言う「歴史の検証」とは、虐殺の実態を解明するための検証のことで、それを行うべきかを問うている。ここも
イエスかノーで答えられる。

その「検証」の「具体的に意味するところ」が「明らかではない」とは?

「歴史の検証」がどういう意味かわからないということなのか?そんなわけはないから、「歴史の検証」はできない、したくないと言っているとしか思えない。

虐殺やその検証に話が及ぶと、答えられない、とくる。

2023年10月の段階で、政府は虐殺は明らかではない、またあったかどうかを含め、その検証をしたくないと主張をするに至っている。検証されることを恐れるということは否定したいということだ。

「虐殺があった」という時代から、「虐殺があったことは明らかになっていない」時代に移った。次はどうなるか。おそらくこの答弁書の内容「も」教科書に載せようとする方向に進むことが予想される。

その後のことは『百年の孤独』のバナナ虐殺をめぐるエピソードに書かれている。


加藤直樹『九月、東京の路上で』ころから、2014年




こういう答弁書を作成するのは役人なのだろうが、論理的にもわけのわからない答えを用意することは、もし仮にも論理的に物を考えようとする人間ならば、精神的に相当辛いだろう。思考を停止して、ただ適当に作文して勤務時間を過ごしているのかもしれない(自分なら後者だ。もしかすると、してやったりの答えを作ったと思うかもしれない)。

作文ができなければパワハラされる場合もあるだろう、怒鳴られたり、恥をかかされたり、上下関係のあるところではいくらでもそんなことがある、上に立っている人間は上に立っているだけで、いつの間にかそういうことをやる。

民主的な社会でさえも、そんなふうに振る舞う人間が権力を持つことがある、選挙で、真に公正な選挙で選ばれることもある。

どんな風通しの良さそうな場所でも、どれほど自由な対話がありそうなところでも、一度権力が生まれると、蛆虫のようにそんな上役が湧いてくる。

そんな蛆虫に自分もいつかなってしまうかもしれない、恐ろしいことだ、ああ、人が、自分が、恐ろしい。

蛆虫なら踏み潰してしまえばいい、だが人間は、そうやって人を差別し、殺し、死体を焼いて埋めておいて、具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難であると言うようになるのだ。

「具体的に意味するところが明らかではないため、お答えするのが困難である。」

Es difícil responder a esta pregunta, ya que el significado concreto no está claro.

権力者にしか言えない表現だ。質問者の能力が低いとでも言っているように聞こえる。

いや、人殺しが自分の罪を認めたくない時にも言える表現だ。

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