2017年2月20日月曜日

『南に向かい、北を求めて』(2)

半年前に翻訳の出たドルフマンの本から気になった箇所を今後のために引用しておく。

読んでみてわかるのだが、これは自伝で、もちろんチリの軍事クーデタ(1973年)が中心にありながらも、英語とスペイン語に関する記述が多い。それが20世紀のラテンアメリカであったわけだ。

イディッシュ語、ロシア語、スペイン語、英語について:

ドルフマンの両親がアルゼンチンについたときのことーー

「彼女[ドルフマンの母ファニイ・ゼリコヴィチ=ワイスマン]の話すスペイン語は下手くそだとも言われた。『うまく話せないさ、ユダヤ人なんだから。』/実際彼女の話しぶりは下手だったかもしれない。何年もの間、彼らの新しいくにに到着した後でさえ、家族内の唯一のことばはイディッシュであった。ママの父親ゼイデがたちどころにカタコトスペイン語を操るようになったのは本当だ(後略)」(24-25頁)

「父[アドルフォ・ドルフマン]は二言語使いであったし、今もそうである。そのロシア語を無傷のまま維持できているとすれば、知的形成の時期をオデッサに送った事実に帰すことができようが、加えてロシア語はその単語のひとつひとつにロシアの民族性、ロシア文学、ロシアの広大な空間を宿していることも挙げられよう、つまりイディッシュ、母が捨てることにした言語の方は、いかなる領土も占有しておらず、諸民族の名を冠した国々が並ぶ地図上にその名を一カ所として記すことなく、一度として国家の道具たる地位を宣言されたことがなかった。」(33頁)

ドルフマンの祖母ピツィのことーー

「祖母は『アンナ・カレーニナ』を初めてスペイン語に訳した人であったし(後略)」(30頁)

二言語使用のことーー

「歴史の長きに亘り、生き延びる手立てとして、人類は常に、自分たちのものではないが支配的な言語を、自分たちのものとする術を身につけてきた。(中略)しかし、歴史の敗者の側に立つ者たち、僕などよりトラウマの残る状況下、自分たちの生殺与奪の権を握る敵が使うことばを学ばざるを得なくなった者たち、そうした人々の近くに寄ってみると、犠牲者の多くが二言語使用者となることを選び取っているのも観察できる。成功する者たちもいれば、ごく最小限後の勲を成し遂げるにとどまり、禁じられ身を隠した言語を新たに縁組みした舌の音や意味にそっと混ぜ合わせ、新しい韻律、新しい文法、新しい抑揚の裡へ忍び込み、新しい舌を自分なりに馴らし、その舌を古の夢に染め上げてゆくだけの者たちもいた。ただ僕が確証を持って言えるのは、圧倒的多数がそもそもの第一言語を十全に、生きた身近なものに保ち続けようとした、ということである。」(66頁)

冷戦と英語のことーー

「その年齢[7歳]に至るまでは、冷戦なるものの作用を無視していても平気だった。一九四六年三月ウインストン・チャーチルがミズーリ州フルトンにおいて、東ヨーロッパの上には鉄のカーテンが落ちてしまったと声を張り上げ、『英語を話す国民たちが横の繋がりを結び』スターリンの全球支配計画と対決すべきであると力説した時は、まだ四歳になっていなかった。(中略)(…)外では、お庭や道端や何よりインターナショナル・スクール、僕も二年間通った学校では、口頭のやりとりに使われる唯一の言語といえば英語だった。この惑星のエリートがそれをもって交信するはずのことばへと脱皮途上の、誰もが身に着けねばならない二つ目のことば、それが英語だった。/こう言っても構わないだろう、僕はその過程の皮切りに付き合った、英語が正しく地球全体を覆う、人類のことばとして初めて屹立してゆく歴史的瞬間に僕は立ち会い、そのことばが惑星の国単位の空間を国など一蹴した形で征服し始める場面に居合わせたと。」(104-106頁)

文学のことーー

「(…)自分は何者なのかを定義する言語、その言語が話されている国に住まわぬ場合、どのようにしてその言語にしがみついていられるかという疑問を乗り越える、最良の方法が文学である、文学はそう言って僕の前に身を晒したのだった。」(131頁)

(この項、続く)

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