4月1日、新年度がはじまった。1月から3月まで、ほぼ3ヶ月をかけて、年度を終わらせることと年度をはじめることの両方を交互にやりながら、〈晴れて〉ではなく、〈雨と雹に降られる〉寒さの中、4月ははじまった。
それでも3月の終わりには春らしい日もあって、卒業生の結婚式に招かれて鎌倉まで出かけた時は暖かい良い天気で、新郎が「晴れ男なので」と言っていたが、その通り、この3月終わりから4月にかけてあれほどの好天はあの数日しかなかったのではないかと思うくらいの晴れっぷりだった。
映画『エミリア・ペレス』を観てきたのだが、この映画は大いに問題がある。そのことを含めて評価されるべきだと思った。この映画のたいていの紹介記事には、自身トランスジェンダーであるカルラ・ソフィア・ガスコンのかつてのSNSでの発言が炎上したことが書かれているが、ここでの問題はそこではなく、この映画そのもの、この映画におけるトランスジェンダーの描き方である。
この映画の内容は、暴力の限りを尽くした麻薬王が、性別移行によって免責され、無処罰(スペイン語で言うところのimpunidad)が可能になった物語である。
ラテンアメリカにおいては暴力に対する無処罰は深刻である。『思想』2025年2月号のファノン特集で石田智恵がアルゼンチンの軍事独裁暴力の免責に触れている。
コロンビアでは麻薬カルテルの極悪犯罪人が整形手術によって身元を偽り、逮捕を逃げている。この映画では、そうした整形手術が性別移行に転用され、手術を受けた人物は処罰されることなく、その後の行動は「寛大さ」として描き替えられていく。何かがおかしいという声はどこかにあるのだろうか?
埼玉県立近代美術館の展覧会「メキシコへのまなざし」を見てきた。学期が始まる直前にゼミでフィールドワークとして募ったところ大勢参加した。
当日はこの企画を担当された学芸員の方が学生たちのために、展示の概要を説明してくださり、その後みんなで鑑賞し、質疑応答、そして再度質疑に基づいて、展示を確認できるように整えていただいた。
利根川光人はメキシコの遺跡を形にして日本に持ち帰ろうと拓本を使う。その拓本も展示され、「心臓を喰らうジャガー」などを見ることができる。質疑応答の時に学生の質問に答える形で教えていただいたのだが、拓本は石を水で濡らして和紙をあてるだけなので、墨を塗って石碑を汚したりするわけではない。しかし欧米人は見様見真似で拓本をとろうとしてインクなどを使い石碑を汚してしまったという。
いまさら気づいたのだが、今回の企画展のチラシに使われている利根川光人の「いしぶみ」という作品は、雨や雷の神チャック(Chac)がモチーフとなっている。
チャックから連想されるのはカルロス・フエンテスの「チャックモール」なのだが、チャックモールとは生贄の儀礼に用いる横たわる彫像である。フエンテスの短篇ではこの二つ、すなわち雨の神(チャック)と生贄儀礼の石像(チャックモール、この名称は作品内にもある通り、ル・プロンジョンが発見して命名した)が融合した存在として出てきているということなのだろう。
日本では、1955年に催された「メキシコ美術展」(これが東京国立博物館で催されたという点にも注目したいが)よりあと、そしてメキシコでは1950年代、双方の芸術家たちは、「現代」というものを描くに際してメキシコの神話への参照を積極的に行なったということである。展覧会図録にはこのように書かれている。
「…日本の美術家に「メキシコ美術展」の「現代美術」が提示したのは、メキシコの歴史や伝統に依拠しながらも反動的な復古主義に陥らず、かつ社会的な主題を躍動感のあるリアリズムによって表現する美術であった。それが今後の美術の在り方を模索する当時の日本に驚きと興奮をもたらしたことは想像に難くない。」(吉岡知子「メキシコへのまなざしが問いかけるもの」、展覧会図録『メキシコへのまなざし』埼玉県立近代美術館館、p.74)