その日ごとに優先順位を決めて、すぐに片付けるべきことはすぐ片付け、「片付ける」という表現が適切でないような時間を要する事柄に対しては、それに取り組むときとそうでないときとをスケジュールと睨めっこして時間を作り出していかないと、結局何をやっているのかわからなくなってしまう。
そんな甘い自分の状況などはどうでもいいことではある。
苛烈な状況に置かれた弱者は日常の雑事に追われながら、差別、マイクロアグレッション、ハラスメントに対して声を上げ続けなければ状況は変わらないが、といって声を上げることすらも不可能で、立場をおとしめられたまま、不遇に人生を終えていかざるを得なかった人たちのことを思わずにはいられない。
差別は巧妙に行われる。差別する人が差別する人に対して言う、「差別するつもりではない」という表現が、「これを差別と取られてしまうと、どうしようもないから言わせてもらうんだけど」という表現が、どれほど差別の巧妙さを示していることか。
そこがどんな小さな組織であれ、組織的に差別を行うことまでをやってのける人は少ない。いないとさえ言っていい。むしろ全員が公平であることに差別者はこだわる。そして差別者は、自分が差別者ではないことを証明しようと、民主的な決定にこだわりながら、つまり「みんなで話し合って決めよう」と言う表現を使いながら、差別者が元々構想している組織のあり方への賛同意識を構成員の中に醸成していく。時に被害者を装いながら。
実は、差別者はそうした術に長けているのではない。差別を表立って行うことを避けようとしていくうちに、結果的に内なる差別心を自分の中で正当化してしまうのである。「差別しているのではない」という意識がその人の差別心を逆に正当化する。
差別というのは常に自分のなかにある。あらゆる言動は差別的になる可能性がある。そうした当たり前が、「差別しているつもりはない」という意識によって当たり前でなくなってしまう。これは本当に怖いことだ。
他人に対して無性に優しくしようとすること、他人に対して丁寧に接しようとすること、他人に対して理解を示そうとすること、これらの一つ一つにはマイクロアグレッションが潜んでいる。パターナリズム的な行動全てがマイクロアグレッションかもしれない(ああパターナリズム、ここからどうやって自由になれるのか?)。加害者になることへの意識はどんな時にも持っておかねばならない。
ある犯罪が行われ、複数の容疑者が浮上した時、一番怪しいとされるのは、その日に限って日頃と異なる行動をとっている人物である。
差別その他の行動もそういうものだ。自分が日頃とは異なる行動、反応をしてしまうとき、それは危険信号だ。今までの自分の行動に照らして、今回取ろうとしている行動はどう見えるか。常日頃から律していかねばならない。
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『図書新聞』3634号にレイナルド・アレナス『真っ白いスカンクたちの館』(安藤哲行訳、インスクリプト)の書評が掲載された。
そこで書いたことだけれども、アレナスの5部作「ペンタゴニーア(Pentagonía)」に対しては、これまで「5つの苦悩」という日本語が当てられてきているが、私なりには「5つの断末魔」と解釈している。
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