2020年1月30日木曜日

キューバ文学:エドムンド・デスノエスの『Now』、ホセ・ロレンソ・フェンテス


昨年末、アテネフランセでキューバの映画作家サンティアゴ・アルバレスの上映会が催された。

ちょうどアルバレスの生誕100年だったということである。上映作品は多数あって、大変興味深い上映会だったのだが、当然『Now!』も上映された(邦題では『今!』)。

アルバレスのいくつかの作品、とりわけ『今!』を初めて見たのはキューバで1999年のことだったと記憶している。

思えば、その年は彼の生誕80年で、彼が亡くなってから1年後だったわけだ。その時すでに主要作品がVHSになっていて、それを入手してみたのだ。

公民権運動とキューバ革命との関係について、アメリカ黒人からの証言のいくつかはすでにこのブログでも紹介したことがある。アルバレスの日本での上映は、キューバ側からの応答を日本語で見ることができるいい機会だった。

ところで、アルバレスの『Now!』は1964年の作品だが、エドムンド・デスノエス編集の『Now』は1967年に出版されている。

Edmundo Desnoes(Selección y Prólogo), El movimiento negro en Estados Unidos: NOW, Instituto del Libro, La Habana, 1967.




公民権運動活動家のアンソロジーで、以下の書き手の文章がスペイン語に翻訳されている。

リロイ・ジョーンズは戯曲(El metro[原作はDutchman]、ジェイムズ・ボールドウィンは短篇(Vamos al encuentro del hombre[原作はGoing to meet the man])。


ストークリー・カーマイケル、マルコムX、マーティン・ルーサー・キングは講演やエッセイ。

奥付を見ると、1万5千部刷っている。翻訳者の名前は出ていないが、多分デスノエスだと思う。

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以下の本は同じ1967年のUNEACの文学賞受賞作。

José Lorenzo Fuentes, Viento de enero, Instituto del Libro, La Habana, 1967.



作者のホセ・ロレンソ・フェンテスは1928年に生まれ、2017年、マイアミで亡くなった。

裏表紙に審査員を務めたレサマ=リマの推薦文が載っている。

2020年1月15日水曜日

キューバ文学:ルイス・A・ベタンクール

1978年の内務省主催の文学賞を受賞して1979年に出たのがこちら。

Luis A. Betancourt, Aquí las arenas son más limpias, Letras Cubanas, 1979.


この小説は、先日東京国際映画祭で見た『WASP ネットワーク』と同じような物語だ。

「Alpha 66」というマイアミ拠点の反カストログループに潜入する国家保安局のキューバ人スパイ。

CIA VS キューバ国家保安局(Seguridad del Estado)モノの典型ということだろう。
作者は1938年生まれ。ジャーナリズムを学び、内務省の准尉としてこの作品を書いた。

1970年代のことでいうと、この小説が1979年に出ているので、一区切りにはなりそうだ。

70年代のキューバの苦闘について、具体的な作品に基づいて考えていきたい。

ある種の「総動員体制下」で書かれたフィクションとはどういうものだろうか?

とにかく一歩ずつ進むしかない。

2020年1月5日日曜日

堀田善衛「第三世界の栄光と悲惨について」

前のエントリーではエンツェンスベルガーを紹介したが、それを踏まえて改めて堀田善衛の「第三世界の栄光と悲惨について」を読み返してみた(堀田善衛『小国の運命・大国の運命』筑摩書房、1969年所収)。



「第三世界の栄光と悲惨について」は、そのタイトルからはあまり想像がつかないのだが、エンツェンスベルガー/野村修を介してラス・カサスの例の『簡潔な報告』を中心に置いて論が進められる。

エンツェンスベルガーがラス・カサスを同時代のものとして読むように、堀田もまたそこに同時代性を認め、ときに自分の問題意識を浮かび上がらせ、ときに沈ませたりしていく。

「植民地主義は、その開始の瞬間の、ほんの四〇年間にすでに、もっとも典型的なかたちで、その暴力的な本質をむき出しにしているのである。だから、その後の四〇〇年にわたる否認のための努力は、専ら植民地主義そのものの持つ暴力的な本質の否認にそそがれることになる。」(190)

その否認のために用いられるのが、植民地主義が植民地に与えるのは「恩恵」であるというレトリックだ。だがそれは「たしかに恩恵であると西欧自らが、キリスト教と文明の名において思い込もうとする努力でもあった。そうして、その努力はまことに自然なことにつねに半分成功し、半分失敗しつづけた。」(190)

植民地主義が「発揮した人間侮蔑、あるいは無視、虐殺、殺戮、搾取、隷属、奴隷化、その他のありとあらゆる悪徳と矛盾」は、「その開始の瞬間から、基本的に内蔵されていたものであり、それがつづく限りにおいて、今日においても未来においても、内蔵[ビルトイン]しつづけるものであることを認識しなければ」いけない。
 
「あらゆる帝国主義、植民地主義の、いわば文化的核心には、そこに必ず”絶対化”というものが存在している。」

この絶対化は、スペインならばキリスト教(神)と国王、日本では天皇をアリバイとすることで成立する。

 「二〇世紀日本が発揮した帝国主義、植民地主義は、大東亜共栄圏という名をもっていたが、その核心には、”皇道”というものがあり、その手段には”皇軍”というものが使われていた。」

堀田はラス・カサスを読み、ラテンアメリカにおけるスペインによる植民地支配、そしてアメリカ合衆国への宗主国の交代のなかに、日本によるアジア侵略を映しだす。

「大東亜共栄圏の構想が、米、英、蘭、仏などの帝国主義権力にとってかわるものであったとするならば、われわれはラス・カサス師の古典をめぐっての、スペインとアメリカ合衆国の、植民地支配、管理権の奪取、交替のことを思いあわせてみることも、それほど不当なことではないはずである。」(195)

支配は暴力である。 これに対して植民地および現地人は、ファノンのいう「植民者イコール絶対悪」として応じるしかなく、そこでの「生活それ自体が暴力そのものになる」。

ここから日本につながり、「[暴力を避けるのは]一種まやかしの融和論のようなものになるであろう。日本帝国主義の朝鮮、台湾支配の場合の公式理論は、この融和論にあった。現実の支配は言うまでもなくむき出しの暴力であったが。」

アリバイとして使われた天皇については、スペインの例を引いてこういう。

「国王の名において犯されている犯罪について、国王は何ひとつ知らない、従ってなんの責任もない……。(中略)国王には、少なくとも責任だけはない……。これと同じ理屈を、われわれ日本人もが歴史のほんのしばらくの以前に、煮え湯を呑まされるようにして呑まされた経験を持つ。もっともこの煮え湯はノドもとすぎて、両者ともにとっての、熱さ知らず、とういことに、いつのまにやらなってしまったものであったかもしれないが。」
 
ラス・カサスがインディオを擁護するためにアフリカからの黒人奴隷の制度化への道を開いてしまったことはよく知られる。

四〇〇年前と、アパルトヘイト下の南アフリカの現状とが比べられ、「はたしてどのくらいのへだたりがあるか、と疑わねばならぬだけの根拠を与えられているのである」。

酷使はされるが殺されない奴隷はどのようにして生まれたのか。

「最小限のコストによって最大限の利潤をあげるためには、労働者をめったやたらに殺してはならないという、経済自体がほとんど自動的にもたらしてくる自明の論理」である、 と。

当然日本のことにも話題が及ぶ。

「われわれ日本人の常識では、この奴隷問題に関してだけは、歴史的に、われわれは無罪であろうと思われて来ているのであるが、どっこいそうは行かないのであった」

そして豊臣秀吉による文禄の役が言及され、「また、つい近頃のこととしては、太平洋戦争中に朝鮮から強制連行されて来た労働者、また中国から、これこそ本当に町や村の街頭で「かき攫うて」日本へ強制連行されて来た中国人労働者のことなども忘れ去られてはなるまい。」

奴隷労働によってタバコやコーヒー、砂糖、ラム酒などが生産され、これらは海を渡り、イギリスやフランスの工場労働者の腹に流し込まれ、彼らの労働の疲れや怒りを鎮めることになる。

こうして、カリブ諸島では「後年にいたってたとえばフィデル・カストロによって口をきわめて弾劾されるところの、「大農園」及び「鉱山」が成立する。」(217)

堀田善衛のキューバ体験がこの文章では随所にあらわれて、「虐殺する」に「マタール」とルビがふられたり、ホセ・マルティの「その生命を単一耕作にゆだねた国民は自殺する」が引用されたりする。

このような単一耕作の結果、自律性を失い、国民も「自殺をしてしまった」。

「わが国[キューバ]の三〇パーセントが自分の名前の書き方を知らず、九九パーセントがキューバの歴史すら知らないという考えられないこと」が起き、さらに「わが国の農村地帯の大多数が、コロンブスがこの島を発見したとき『人間の目がこれまでに見たもっとも美しい土地』と感嘆した当時のインディアンよりももっと悪い状態で生活していることも考えられないこと」も起きた、と。これはカストロの言葉。

「帝国主義の富はわれわれの富でもある。ヨーロッパとは、文字通り〈第三世界〉の作り出したものである。ヨーロッパを窒息させるほどの富は、後進諸国の人民から盗みとられた富だ」。これはファノンの引用。

では独立後の第三世界はどうなるのか?これがこの文章のタイトルにつながってくる。

「第三世界が、全体としてよくなりつつあるという徴候はない。【先進国との】その差、ひらきは一層ひどくなりつつあるのが現状である。独立以前よりもわるい、というのが、実際のところ、大部分なのである。(中略)独立は解放の同意語ではないのだ。」(p.223)

アメリカの黒人問題については、マルコムX、デュ・ボイス[ここではデュ・ボア]が参照される。そう言えば、小田実はキューバ紀行の時には、ナット・ヘントフの『ジャズ・カントリー』を参照していた(『この世界、あの世界、そして私』p.42 あたり)。

小田実は、第三世界の人間はいつも「手数料」を払わされてきたと、ナット・ヘントフを借りて言う。

この手数料を払うかどうか、犠牲を伴っているかどうか、これが第三世界なのだ。

まだまだ引用したいところはあるのだが、とりあえずここまで。

この文章に続いて、「エルネスト・"チェ"・ゲヴァラと現代世界」がある。ここではアルジェリアで1965年に開かれた「第二回アジア・アフリカ経済ゼミナール」でのゲバラの演説が紹介される。

2020年1月2日木曜日

ラス・カサスと(エンツェンスベルガー/野村修と)堀田善衛

「かれ[ラス・カサス]の報告は、植民主義のもっとも初期の形態を、すなわち、剥き出しの掠奪、露骨な劫掠を扱っている。国際原料市場の複雑な搾取機構は、かれの時代にはまだ存在しなかった。スペインのアメリカ征服にさいしては、貿易関係はなんの役割りも演じていなかった。征服を正当化するために利用された口実は、卓越したヨーロッパ文明の普及でもなければ、どんな性質のものかはともかくとして「開発政策」でもなくて、うすっぺらな、形式だけのキリスト教だった。キリスト教世界のご到着まで生き伸びていた異教徒を、改宗させましょう、というのである。原始状態の植民主義は 、互恵とか交易とかいったフィクションを棄ててかかっていた。」(p.103-104)

以上は、 エンツェンスベルガー『何よりだめなドイツ』[石黒英男訳、晶文社、1967年]所収の、「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」からの引用である。



バルトロメ・デ・ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は岩波文庫から1976年に出ている(染田秀藤訳)。

1964年にキューバを訪れて『キューバ紀行』(初版は岩波新書、現在は集英社文庫)を著した堀田善衛は、その紀行文ではやや暢気な調子でキューバ見聞録を書いている。

とはいえ、冒頭は「いつもアメリカの軍艦が睨んでいる」と書き始めている通り、まずその目がとらえているのは「戦争」である。集英社版では省かれているが、初版には写真が何枚か載っていて、そのうち一枚はキューバ人民兵の行進風景である。

堀田ののち、小田実がキューバ紀行を書くが、そこには堀田善衞が見たときの「牧歌的な」キューバとは違う、1968年のもっとシリアスな状態にあるキューバを見たという自負がある。もちろんその時のキューバが直面していたのは対米の緊迫というよりは、国内における緊迫のことだが。

小田実のキューバ紀行は以下の本に載っている。


 
堀田善衛はその後、「第三世界の栄光と悲惨について」や「エルネスト・”チェ”・ゲヴァラと現代世界ーーインタナショナリズムの前途」を、キューバ経験を踏まえて書いている(以上は『小国の運命・大国の運命』に所収)。この時、キューバで訪れた「マタンサス(虐殺の意)」州とラス・カサス報告の「虐殺」が重ね合わせられるのだ。

小田実もキューバとチェコスロバキアを比較しながら書いているが(『この世界、あの世界、そして私』河出書房新社、1972年)、堀田善衛はこう書いている。

「(…)そうして一九六四年に、私はキューバへ旅行をして、キューバ革命についての文献を求めるためにハバナからモスクワ経由でパリへ行った。(…)学生街のそんじょそこらの本屋で、キューバ関係はもとより、「第三世界」と呼ばれているアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどでの革命運動、ゲリラの状況、また各地に自生をしはじめた革命理論についての文献を、きわめて容易に入手することが出来たものであった。けれども、第三世界の文学作品は、やはりPresénce Africaineなどの専門店へ行かないと、網羅的には入手できなかった。」

なんと、堀田善衛はパリのプレザンス・アフリケーヌ書店へ行っていたのだった。

そして堀田のこの「第三世界の・・・」は、ラス・カサスの『簡潔な報告』の内容から書き出されており、ラス・カサスの本をパリでフランス語訳で手に入れて読んだと言っている。しかし堀田はその文章を書く時そのフランス語版が手元になく、「野村修氏の手になるドイツ語訳による抄訳にたよ」ったとある。

ということは、と思って『何よりだめなドイツ』の「ラス・カサス、あるいは未来への回顧」の訳者を見ると、野村修氏だった。

エンツェンスベルガーの文章から引いておきたい箇所。

「この本[ラス・カサス報告]のアクチュアリティーは不気味なほどであり徹底して同時代のにおいがする。」

ここは特にベトナム戦争のことを言っている。エンツェンスベルガーは続けて言う。

「歴史の類似というものは、すべて二義的なのだ。それを拒否する者にとっては、歴史は無意味な事実の集積になる。それを真に受け、特殊な差異を無視できると思う者にとっては、歴史はあてどない繰りかえしになり、かれは、いつだってこんなものだったのさ、という詭弁のとりこになる。そうなれば、そこから暗黙の結論は、これからだってこの通りさ、ということになるのだろう。」

「平和な植民などというものはないのだ。(…)剣と火にもとづいてのみ、植民地支配は確立される。」