2015年8月30日日曜日

メデジンーバルセロナ[写真追加]


バルセロナ現代文化センター(CCCB)に行ったところ、Piso Pilotoという都市と住宅に関する展示をやっている。

このCCCBは、2年前はボラーニョ展を、ついこの前はゼーバルト展をやっていたところである。とてもすばらしい本屋が併設されている。

今回見たPiso Pilotoはメデジンのアンティオキア美術館とバルセロナのCCCBの共催だという。

何年もかけて双方で行き来があったようで、メデジンのラッパーEl AKAがバルセロナを訪問したという記事も見つかった。El AKAの曲はたとえばこれ

企画そのもののページはこちら

世界的な観光都市バルセロナと、かつての犯罪都市メデジンに共通点があるとは。

どちらも地理的にこれ以上広くならない限界を抱え、それぞれ産業が盛んで、国内で第二の都市の規模を擁する。また、文化的にも首都との違いがあるとされる。

そして、どちらも都市開発が目覚ましいとのことである。要するにジェントリフィケーションだ。あまり掘り返せないような植民都市の多いコロンビアで、ジェントリフィケーションを実現しているのはメデジンかもしれない。

住宅問題を抱えていない都市はないだろうが、2014年の「エル・パイース」紙の記事によると、バルセロナでも住宅問題は喫緊の課題だ。ついこの前もこんなオピニオンが掲載されている。不確かな世界における住宅の確保は、安全という蜃気楼を求めてとのことだという。

バルセロナもメデジンも都市交通網にロープウェイがあり、似た風景を探すことができる。

この展示の入り口で、8分ほどの映像を見ることができる。画面の左はメデジンの一日、右はバルセロナの一日の様子を映したものだ。トレイラーはこちら

メデジンでもバルセロナでも、山から見下ろした町並みがあり、川があり、自動車専用道路が走り、電車が動き、ロープウェイが浮かび、街路には人が溢れ、ダウンタウンがある……。どちらの街でも同じような一日の流れがある。

ここまで似せられるのかというほどよく似せていて、確かにその通りなのだ。

あのガウディのグエル公園からの眺めと、メデジンの展望台からの眺めが似ていると言って、納得してくれる人がいるだろうか?

バルセロナの都市と住宅に関する具体的事情はなかなか想像しにくいが、メデジンは容易に想像できる。街を取り囲む丘の斜面に暮らす人々の住宅問題は、メデジンの当局が解決しなければならない課題である。バルセロナも同じような問題を抱えていたらしい。

メデジンの場合、丘全体にロープウェイ(メトロカブレ)を通したのも、その斜面(コムーナと呼ばれる地区)の人々の移動を可能にするためだ。

都市における住宅問題というのは、要するに公的空間と私的空間のせめぎあいである。都市が都市として機能するためには、住人のプライベートのケアは避けてとおれない。

このような二都市の共同展示企画Piso Pilotoは、全体が40ほどの部屋に分かれていて、そこで、ポスターセッションや映像資料などが展開される。

2015年3月のメデジン訪問と同じ年8月のバルセロナ訪問がこんな風に結びついた。
写真は、上がメデジンで、下がバルセロナ。どちらも筆者が撮影したもの。




2015年8月28日金曜日

コルタサル、2014

昨年はコルタサル生誕100年で、いろんな本が出たが、見落としていたものを二冊。

ひとつはこの伝記本

Raquel Arias Careaga, Julio Cortázar: De la subversión literaia al compromiso político, 2014, Sílex Ediciones.

Kindle版がある。

そしてもう一冊はこちら

ウルグアイのクリスティナ・ペリ・ロッシの本
Cristina Peri Rossi, Julio Cortázar y Cris, Ediciones Cálamo, Palencia, 2014.

一頁目を読んだら、その先も読みたくなるような本である。

どちらもバルセロナで発見。本屋も紹介しておこう。

一冊目を見つけたのは La Memoria Librería

この本屋は記憶、伝記などを中心にしたセレクトブックストア。ホロコースト、スペイン内戦、世界対戦などのコーナーがある。手塚治虫の漫画「アドルフに告ぐ」もあった。

二冊目は Antinous
 AntinousはLGPT関連の本屋で、バルセロナにはもう一軒、Librería Cómplicesという同じ傾向の本屋もある。

マドリードにいるのなら、Berkanaもおすすめ。


2015年8月23日日曜日

パトリシオ・グスマン監督作品『光のノスタルジア』『真珠のボタン』


パトリシオ・グスマンの映画を2本見る機会をいただいた。

すぐには言葉にならない、心の奥底に残る映画だった。



『光のノスタルジア』と『真珠のボタン』の2部作。チリの話だ。




『光のノスタルジア』はチリの北、アタカマ砂漠で展開する。



チリのアタカマ砂漠には天文台がある。日本も参加しているプロジェクトである、アルマ望遠鏡もここにある。アタカマ砂漠は高度が2000メートル以上ある。



天文学者へのインタビューで始まり、教育テレビのように分かりやすく宇宙の神秘についての考えが示される。スペイン語もとても分かりやすい。優しい話し方だ。この優しい話し方にどこか聞き覚えがあるような気がするのだが、思い出せない。



天文学者が覗く望遠鏡のおかれたこの砂漠にはいくつかの物語がある。



19世紀のチリ硝石のブームとその終焉。



ピノチェト政権による行方不明者の死体を探す女性たち。






天文学の語りと行方不明者を探す女性たちの語りが交錯していく。



『真珠のボタン』ではチリの南、西パタゴニアが舞台になる。



ここにはカウェスカル族やその他の少数民族へのインタビューが展開する。水の民の生活。そこを征服したヨーロッパ文明。



そして、海に眠るピノチェト政権による行方不明者の死体。レールに縛り付けられてヘリコプターから投げられた死体だ。



砂漠と海のどちらにも70年代の軍政の跡が残っている。





2015年8月14日金曜日

プエルトリコ映画(3)『Mal de amores』(メモとして)

プロデューサー:Benicio Del Toro(ベニチオ・デル・トロ)
監督:Carlos Ruiz とMariem Pérez
制作:2007年

プエルトリコの映画だが、それに気づかずに見てしまうこともありうる。

北アメリカのどこかの田舎にある貧しい地区のような、そういうテイストがある。人の太り方や振る舞いにどこか北アメリカ的なところがあるように感じる。

といって、こういうアメリカ的な世界がスペイン語で展開する地域があるかというと、やはりプエルトリコということか。

3つのカップルの話。

①老夫婦(フローラとシリーロ)のところに、妻のほうの元夫(ペジン)が転がり込んでくる。シリーロはペジンを追い出したくて嫌がらせをするが、うまくいかない。3人で喧嘩しながら暮らしていく。

②郊外の開発区に暮らす中年夫婦(40代くらい。イスマエルとルールデス)とひとり息子(イスマエリート)。夫が妻の親戚と浮気していることがわかる。くだらないことで浮気が発覚し、妻が浮気相手に会うのが葬式だったりする。妻は発狂、夫は浮気相手と駆け落ち。その合間に子供は近所の女の子と仲良くなっていく。

③女性のバス運転手に恋をした男(20代後半か30代前半の引きこもり)が、バスを乗っ取り、運転手に結婚を迫る。警察に取り囲まれ、乗客にも説得されるが、後に引けず発砲して、刑務所行きになる。

この3つが交錯するように進む。暑さとじめじめした雰囲気が全編に横溢している。どの人間関係も常に不安定で、うまくいっていない。爆発して関係を解消してもスカッとするわけでなく、また新たな関係のなかで、同じようなイライラの局面に戻りそうな無限ループが予想できる。

この「変わらなさ」や「どこにも行けない感じ」を、プエルトリコと読んでいいのかどうかはわからないが、いまのところはそう見ている。


2015年8月13日木曜日

プエルトリコ映画(2)『逃亡奴隷』

監督:イバン・ダリエル・オルティス Iván Dariel Ortíz
制作年:2007年
原題:El Cimarrón

カリブ地方には各地に逃亡奴隷の物語がある。コロンビアなら、サン・バシリオ・デ・パレンケのベンコス・ビオホー。キューバには元逃亡奴隷の語りを人類学者ミゲル・バルネーが編集した『逃亡奴隷』がある。

この映画は、プエルトリコの逃亡奴隷、Marcos Xiorro(カタカナにしにくいが、マルコス・シオーロとしておこう)の物語だ。マルコスのことは、Wikipediaにも載っている

マルコスは、アフリカでは高貴な家系で、フェミと結婚したばかりだった。しかし夜中に外部からの侵入を受けて引き離される。

そしてプエルトリコに奴隷として連行される。1808年のことだ。

奴隷市場で売られ、紆余曲折ののち、フェミもマルコスも農園主ドン・パブロのもとで働かされるようになる。マルコスは頻繁に農場から逃げ出しては捕らえられ、奴隷頭のサンティアゴにはひどい扱いを受けている。
 
ドン・パブロは生粋のスペイン人(ペニンスラール)で、砂糖農園を経営しているが、スペインとの往復生活だ。妻は妊娠中。妻は出産のためスペインに戻る。一人になったドン・パブロはフェミ(カトリック名はカロリーナ)を手込めにしようと機会を狙っている。

ここでプエルトリコの当時の状況が説明される。


・ドン・パブロのようなペニンスラールとカトリック教会側は、プエルトリコをカリブ海の要所と考え、植民地として維持し続けるつもりである。砂糖生産に力を入れ、革命後砂糖生産が落ち込んだハイチを抜き、プエルトリコでのペニンスラールの経済力と政治力を確固たるものとしようとしている。1809年から1820年までプエルトリコ知事を務めたサルバドル・メレンデス・ブルナ(Salvador Meléndez Burna)はペニンスラールの味方だ。

・彼らにとって敵となるのは、クリオーリョ勢力だ。彼らは徐々に経済力をつけてきている新興層。映画ではコーヒー農園主ドン・ドミンゴに代表される。教会側にもフアン・アレホ・デ・アリスメンディ司教(Juan Alejo de Arizmendi)のようにクリオーリョに味方する自由主義者がいる。また、政治家のなかにもプエルトリコの立場を改善しようと働く政治家ラモン・パワー・イ・ヒラルト(Ramón Power y Giralt)もいる。ラモンはプエルトリコ代表としてカディス議会(カディス・コルテス)に赴く予定である。これが歴史上1809年から1810年のことで、映画の設定が1808年である理由はここにあるのだろう。

映画内での対立構造をまとめると、以下のようになる。

・保守派:ペニンスラール(ドン・パブロ、砂糖農園主)、教会関係者:奴隷制維持、植民地体制維持
 奴隷を大量に連れて来て、砂糖生産高を上げ、場合によって北アメリカのバイヤーに売るつもりである。

・自由派:クリオーリョ(ドン・ドミンゴ、コーヒー農園主):奴隷廃止、独立(とははっきり言っていないが)
  奴隷がたくさん来れば来るほど、クリオーリョの仕事は少なくなる。奴隷廃止をスローガンにクリオーリョ層を一致団結させようとする。


映画のその後はかなり駆け足だーー
 
ドン・ドミンゴは前述のアリスメンディ司教の支援もあり、奴隷廃止をスローガンにクリオーリョで団結しようとしたが、密告者に殺されてしまう。しかもペニンスラール側は、その犯人が奴隷のマルコスだと噂を流し、マルコスには死刑判決が出る。

マルコスは脱獄し、ドン・パブロを殺害して、カロリーナとともに逃げる。他の奴隷たちも蜂起する。しかしカロリーナはペニンスラール側に撃たれて死ぬ。泣きくれるマルコス。

映画はここで終わる。マルコスが逃亡奴隷になるのはその先のことだ。

まとめておくと、19世紀前半にはクリオーリョが力をつけて、プエルトリコの独立と奴隷解放を唱えていた。しかしその勢力は、プエルトリコを帝国のカリブにおける要所としか考えていないペニンスラールにつぶされた、ということ。

2015年8月4日火曜日

キューバ映画(6)Personal belongings(邦題:恋人たちのハバナ)[8月5日修正]

キューバ・ボリビア映画
監督:アレハンドロ・ブルゲス(Alejandro Brugués)
制作年:2006年

主人公のエルネストはキューバを出たいと思い、各国大使館を訪れて面接をしてビザをとろうとするがうまくいかない。彼は母を亡くし、家はなく、車のなかで暮らしている。

エルネスト曰く、車は「おれの事務所 mi oficina」。つまり、彼は運転手ということだが、白タクなのだろうか。映画のなかで彼が運転手として働いている部分が出てきたという記憶がないので曖昧だったが、台詞をもう一度追い直したら、運転手として金を稼いでいるとあったので、そういう設定のようだ。[この部分、8月5日に修正]


エルネストには、同じように出国のために大使館並びをしている友人が2人ほどいる。

いっぽう、アナは家族が亡命したが、自分は残ることに決め、大きな屋敷に独り寂しく住んでいる看護婦。

ある日、エルネストはビザの取得のために健康診断書が必要になり、病院へ行く。そこでアナと出会う。このときアナの上司にあたる年配の医師が出てくるが、映画の最後で意外な人物であることがわかる……

エルネストとアナはお互いに惹かれ合うが、エルネストは出国を求め、アナは出国する気はない。

2人はお互いに干渉しないで、相手を深く知ろうとせず、割り切った関係を保つことにする。アナはエルネストが出国するための面接の練習につき合ってやったりする。

旅が目的で亡命するためではないことをきちんと伝えないとダメだ、キューバのことが好きだということを伝えないといけない、とアナは適切なアドバイスをする。

ちなみに、映画内では、どの国の大使館に行っているのかはわからないように、ぼかしてある。 見たことのない国旗のある大使館がいくつか出てくる。

映画内の面白い会話:
アナ「もし私が本だったら何だと思う?」
エルネスト「『資本論』だね」

エルネスト「もし俺が車だったら何だと思う?」
アナ「ラーダよ」
 ※ラーダはロシア(旧ソ連)製の車種。「ラダ」だと思っていたら、wikiでは「ラーダ」になっていた。

アナ「もし私が国なら?」
エルネスト「キューバ」

出国の方法は、ほかにもあって、スペイン人の女と結婚するというものだ。

(続かないかもしれないけれども、一応続く)



2015年8月1日土曜日

プエルトリコ映画(1)Casi Casi

プエルトリコ映画

原題:Casi Casi「あともう少しのところで」
監督:Jaime VallésとTony Vallés(兄弟)
制作年:2006年

学園もののコメディ。GTO風のドタバタで、大人向きではない映画のような気もする。

エミリオはこれという特徴のない男の子。仲間のアルフレド(パソコンオタク)らといたずらばかりをしていて、厳格な女性校長にいつも呼び出されている。その割に、ひそかにエミリオに恋心を寄せるマリア・エウヘニア(アナウンス部の優等生)や何人かの女の子たちと放課後いつもつるんでいる。

その彼が学校の人気者のジャクリーンに一目惚れしたが、まったく相手にされない。

そこで彼は生徒会長に立候補し、目立とうとする。そうすればジェクリーンが振り向いてくれると思ったわけだ。ところがふたを開けてみたら、ジャクリーンは対立候補だった。選挙運動がはじまり、エミリオは仲間の応援もあって楽しく準備する(ここで、サン・フアンの要塞で写真を撮ったり、カフェで談笑したりする場面が、サルサ音楽とともに展開する。)マリア・エウヘニアらがスクリプトライターをつとめ、すばらしいスピーチを用意してくれる。

おかげでエミリオは当選が見えてくる。しかし当初の目的はジャクリーンを振り向かせることにあったわけで、エミリオが勝ってしまえば、逆効果になる。そこでエミリオは当選しない方法がないかどうかを友人たちに相談する。

仲間はこれまでエミリオを応援してきたためにがっかりするが(とくにマリア・エウヘニアはひどく落ち込む)、エミリオがジャクリーンとうまくいくためであればと、ジャクリーンを勝たせる方法を探す。

選挙はアルフレドが開発したシステムを使ったコンピューターによる投票のため、集計のときにコンピューター室に忍び込めれば、手を加えられることがわかる。開票寸前で操作してジャクリーンを勝たせ、エミリオは彼女からの好意を得るはずだった。

いよいよ開票当日、コンピューター室で彼らは結果の工作に挑む。しかし不運も重なって多くの障害に出会う。とくに厳しい女性校長に露見しかけ、あともう少しのところで計画はおじゃんになりかける。といっても、なんとか乗り越えて、最終的にジャクリーンが当選するよう開票結果に手を加える(実際の結果はエミリオが勝っていた)。

その後、エミリオは、自分が勝ちたくないから譲ったんだとジャクリーンに打ち明ける。しかし期待とは裏腹に、ジャクリーンはそのことに何の恩義も感じずに、勝ったことに喜んで、取り巻きたちと去っていく。

こうしてぼくたちの青春は終わったーーー的な感じで映画はエピローグに入る。

夏を迎え、エミリオはいつもの仲間と喫茶店でだべっている。ひとり列に並んで注文しているとき、ふと目を上げるとガラス窓越しにマリア・エウヘニアが見える。彼女と目が合い、自分が彼女のことが好きであることに気づく。

最後のオチとして、厳格な女性校長がワルっぽい男のバイクにまたがってあらわれて、エミリオらを仰天させる。